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白銀様−1

 もうじき山を下りてしまうのに、後ろからまだヘビが付いてきている。
 ヘビは長さ一尺ほどで真っ白だ。
 日番谷は困ったなと歩みを緩めた。
日番谷の村では白いヘビは神様として祭られている。『白銀様』は丁重に祭れば村は富むし、粗末にすれば厄災を招くと昔から云われていた。
 けれど、このまま帰れば村にいる犬や小さな子に苛められてしまうかもしれない。
 相変わらず数歩うしろを這う白いヘビを振り返って見つめると、ヘビは鎌首をもたげて日番谷と見つめ合った。
白くて利口なヘビは普通のヘビにおもえなかった。
 だから、祖母に教えてもらった知恵が役に立つのか試してみたくなった。
 「しろがね様、差し上げますから今日はお帰りください・・・」
 独り言みたいに小さな言葉なのに、驚いたことにヘビは日番谷の言葉に嘘がないか探すみたいに首を更に高く伸ばすと、やがて納得したのか静かに来た道を引き返していった。
 その後姿を驚きの気持ちのまま見送ったあと、次にするべきことを思い出して家路を急いだ。
 あの白いヘビが本当に『白銀様』なら、家に帰って明け三つまでに戸の外に徳利にお神酒を注いで出しておかなければならない。
 本当に神様に会ったのかもしれないという興奮と、今夜その神様が家の前に来るかもしれないと云う畏れで足が少し震えていた。
 それでも止まることなく日番谷はふもとまで一気に駆け下りていく。
 
 
 「作物が実を付けないのだ・・・」
 外に置いた徳利が空になってから数日後、ここ数ヶ月ですっかり痩せてしまった村長が日番谷の家を訪れた。
 戸を開けた時から予感はしていた言葉ではあった。
 黙って中に通して白湯を勧めれば、口から飛び出しそうになる言葉を喉の奥に押し戻すように白湯を飲み干して、言葉の変わりに重いため息を吐いた。
 しばらく当たり障りのない会話や最近の日番谷の暮らし向きを訪ねたあと、飲み込んだ言葉を少しずつ千切って吐き出し始めた。
 「・・・・知ってます。」
 目を逸らさないで答えれば、それに勇気付けられたように話はポツリポツリと続いていく。
 日番谷の暮らす村は日当たりもよく森の恵みも多く、水も豊かだ。
 けれど昔は川の氾濫も多く、田畑は朝から晩まで耕しても荒れていたと聞いている。
 そんな時、土地の神に願ったと云う。
 村の豊穣と繁栄を。
 その当時は村には神官がいて、供物を捧げて神へ祈ったそうだ。
 雨を、安全を、実りを・・・皆が心から望むのは当然のものばかり。ちょっとの雨が、作物の実りが、森での危険が、自分や自分の親しい人達の命を左右するのは誰でも身に染みて知っている。
 望むことは当然で責めることはできない。
 それは分かるけれど、神に祈ってしまえば供物を差し出さなければならない。
 時にはその年一番の出来だった酒の樽だったり、上等な反物だったり・・・、未婚の娘だったり、子供だったり。
 神官が選んだ供物は神の住む森に奉納される。
 普段立ち入ることは許されない森の、奉納の儀式の時にだけ人々が向かう社に、供物を収める約束だと言われている。
 日番谷の祖母は物知りで、小さかった日番谷に色々教えてくれた。
 最近は珍しくなってしまったけれど、昔は日番谷のように髪が銀色で瞳が黒くない姿をした村人が時々いたそうだ。祖母は「冬獅郎は先祖返りしたんだよ」と言っていた。
 俯いているから、ひと房の髪が目の前に下りてきている。婚礼の衣装に使われている銀糸のような髪。
 この姿をした村人は、年若いうちに何処へともなく消えてしまうとも聞いた。
 それは長生きできなかったのか、村に居づらくて出て行ってしまったのか分からない。
 もちろん『神隠し』にあったと騒がれることもあったらしい。
 だから村長の言葉が、ちぎってもちぎっても最後の尻尾が出てこなくても、日番谷には最初から分かっていたのだ。
 雨も例年通りに降っているし、夏の日差しも十分だった。
 村人は労を惜しまずに働いて田畑を豊かにした。
 それなのにもうじき黄金色に変わる稲穂には実が入っておらず、毎年膨らむ果実は貧弱なままだ。
 もう人の汗だけでこの冬を越す準備はできない。
 そんな時に前年に祖母を亡くし、1人で暮らしている日番谷を思い出すのは村長だけではないはず。昔、神が何度も隠した『銀糸の髪』をもつ子供が村にいるこの偶然。
 神の啓示に思えても仕方ない。
 頭を上げてもう一度村長をきちんと見れば、年齢よりずっと若々しくて分厚い手が、こんな子供相手にも礼儀正しく座る両膝をぐっと鷲づかみにしている。
 村のためにいつでも心を砕いてきた初老の彼が考えていることが透けて見えるようだ。
 こんな子供に重い責を負わせてこの冬を越えることが正しいのだろうか? 自分が銀の髪をしていれば喜んで代わってやれるのに・・・。神は本当にこの子を望んでいるのだろうか?
 全ては自分たちの気持ちが弱いばっかりに作り出した幻の存在に頼ろうとしていないか?
 本当は、この子供を神なんか居ない、寂しい森の奥深くに置き去りにしようとしているのではないだろうか?
 群れの中から犠牲を払わなければ生き長らえる術をもたない草食動物に似た気持ちと、子ども達の危険を見れば無条件に保護に走る大人としての当然の常識が、ギリギリと目の前の人を締め上げていく。
 日番谷が黙っていれば、この真面目な優しい人は色々なものに潰されてしまう。
 そう思っても、この家の黒く光る柱や、少し古いけれど十分に温かい布団。
 隣に住む兄弟みたいに仲の良い友達、遊んだり魚を採るのに十分な深さのある近くの川、毎年実りを楽しみにしているあけび。
 それを立ち入ったこともない森の、さらに奥を思い起こして比べれば、深くうなだれてしまい、唇が震えた。あそこに独りで置いていかれ、誰も迎えに来ることもない。
 神様は社に居なくて、自分は空腹と孤独だけの場所で朽ちるだけ。
 けれど、ふいに森で会った白いヘビを思い出した。
 空になった徳利はやっぱりあのヘビが飲んだのだと思えば、やっぱりあのヘビが白銀様か、白銀様のお使いだったのだとぼんやりと思った。
 神様の住むと云うあの森の奥に、あのヘビがいる・・・・。
 「俺、白銀様の森に行っても・・・・いいです。」
 その言葉はごく自然に出てきたものだった。震えてもいないし、まるでちょっと手間だけど、大したことのない用件を受けたみたいな。
 むしろ言われた村長のほうが体の見えないところに出来た傷が痛むみたいな顔をしていた。
 その苦痛で歪む顔を隠すみたいに静かに頭を下げるから、日番谷は慰めたくて『白銀様は本当に真っ白なヘビでした。怖くはないです。』と言いかけて止めた。
 言われた村長は、多分、更に悲しむだろうから。
 
 返事をしてしまえば後は早かった。
 村長の身内の男たちが数人準備に手を貸し、二日後の夜が明ける前に白装束の迎えが日番谷の家に来た。
 供物を捧げる儀式は、村人に知らせるのは供物が森に入った後と決まっている。だから音もなく男たちは訪れて、日番谷も村人に挨拶することなく行かなければならない。
 日番谷も初めて見る綺麗な細工と刺繍で作られた籠に乗り、すだれを下ろされてしまえば後は黙って揺られているしかなかった。
 行き先は提灯持つ先頭の村長しか知らない。
 やがて駕籠はゆるやかな坂を日番谷が辛くないように気をつけて登り、動物たちの声が遠くで聞こえだした。もうじき明るくなることを知っている獣たちが眠りから覚めようとしているのか、森全体がざわめいているようで、不安定な印象だった。内に秘めた興奮を、人間たちに知られないよう、気配を殺しているようなざわつきと静けさ。
 やがてゆっくりと夜明けを向かえ、白々とした光が辺りを囲むころ、ようやく話でしか聞いたことのなかった社の前に着いた。
 日番谷の家よりずっと大きな立派な社。こんな建物が人の手入れもないまま傷むことなく森の中にあることに驚けば、本当に神の土地へ来たのだと緊張した。
 村長と男たちの顔を見れば同様で、村とは違う、澄んではいるけれど人には息苦しくなるような張りつめた空気に、神を身近に感じているようだった。
 こんなところに子供を置いて帰るなんて、悪い冗談だ、と皆の顔が雄弁に語っている。
 だから誰かがそれを口に出す前に、日番谷は社を背に、ここまで一緒にきた全員に深くお辞儀をして、ひとかけらの悲しみも顔に出ないよう、むしろ誇らしいように胸をはり、震える足で社に入り、最後の気力で社の滑らかな戸を閉めた。
 そのまま微動だにせず耳をすませれば、大分たってから村長が全員に慰めの言葉と、村民に説明しなければならないと指示を出してようやく一行はその場からゆっくりと立ち去った。
 徐々に遠ざかる人々の気配に耐える。
 けれど身構えていたより人恋しさや悲しみは襲ってこなかった。
 自分はそんなに薄情だったのかなと胸の中を覗けば、確かに生まれてからずっと育ってきた村から離れる寂しさや、もう二度と帰れない悲しさ、これからどうなるのか、といった不安などがぐるぐると渦巻いている。
 ただ、それをぴっちりと包むうすい膜がある。
 その一枚が、この急激に変わってしまった運命に対する様々な痛みを優しく包み込んでいた。
 気配が完全に消えてから、そっと戸を開いてみると驚いたことに誰も居ない社の前に男が立っていた。いや、立っていたと云うより、丁度この社に向かって少しばかりの階段を上がろうとしていたところだった。
 「・・・・だ、誰だ?」