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紅蓮−24
日番谷がすっかり寝入ってしまった頃、市丸はしっかりと抱き締めてその天使のような寝顔をみつめていたが、やがてスルリと腕をほどき、身を起こした。
激情に駆られて出てきてしまったが、腕の治療は終わっていないし、抜け出してきたことがバレたら、卯の花にも吉良にもどれだけ怒られるかわからない。
それに、日番谷も怒るような気がした。
彼もまた朝が早いのだし、いつまでもいたら、邪魔に思われるだろう。
こういうことは去り際が肝心なのだ。
(せやけど、名残惜しいわ…)
想いも遂げ、満足したはずなのに、去り難い。
夢の中の逢瀬のようで、朝日とともにその事実までもが消えてなくなるのではないかと不安さえ覚えてしまい、ますますもって、去り難い。
それでも意を決し、身を離そうとしたとたん、
…日番谷の手が、きゅっとその着物を掴んだ。
「…日番谷はん?起きとるの?」
そっと聞いてみるが反応はなく、目覚めている様子もない。
起こさないようにそっと指を離そうとするが、予想以上の力でぎゅっと握ってきて、離そうとしなかった。
(困ったなぁ…)
思いながらも、市丸の顔に、みるみる笑みが浮かんできた。
(これは、帰るないうことやね?)
日番谷の許しをもらったということにして、いそいそと布団の中にもぐりこみ直した。
日番谷の手はしっかりと着物を握ったままだったが、それごと抱き締めて、額にキスを落とした。
こんなにも優しい気持ちになるのも、こんなにも誰かを愛しいと思うのも、初めてだ。
子守唄でも歌ってやりたい気にすらなった。
(ボクのもんや。ボクのもんや。ほんまに、ボクのもんになったんや)
そう思っただけで、震えるほどの喜びに胸が躍った。
抱き上げて連れ回し、藍染にも吉良にも松本にも東仙にも、その他瀞霊廷中の死神達に、ふれて回りたい気分だった。
薔薇色の世界などという表現があるが、その薔薇色とは、こんな色だろうかと思ってしまう。
(ふかふかのほっぺも、すべすべのあんよも、素直やないけどもそこがまた可愛えおくちも、みんなみんな、ボクのもんやvv)
苦労して手に入れた宝物は、今手にあるのが不思議なくらい、本当に大切に思えた。
彼の心が確かに市丸に向けられていることを感じるだけで、戦闘よりも、殺戮よりも、過去のなによりも市丸を興奮させ、高揚させた。
日番谷をその手に抱いているだけで、今まで届きもしなかった遥かな高みにまで上り、目の前がどんどん開いてゆくような心地がした。
閉じられていた箱がどんどん開き、閉じていた扉がどんどん開き、窓が開き、道が拓き、雲が切れて眩しいほどの光が射し込み、遥か遠くに見たこともない景色が広がってゆくのが見える。
見えなかった目が開き、動かなかった手が動き、立てなかった足で歩けるようになったような感動だった。
疾い風とともに世界が市丸に向かって開いてゆき、乾いた泉から、溢れるほどに水が湧き出してくるようだ。
水が、エネルギーが、喜びが、充実感が、次々と身体の隅々までを満たしてゆき、そのあまりの心地よさに小指の先まで痺れるようだった。
自分をコントロールできなくて、窒息感に息もできないほど苦しんでいたのが、ウソのようだ。
気が狂うほどの飢餓感は消え去り、耐えられない空虚感はピタリと収まって、自分を取り戻せそうな予感がする。
衝き上げるほどの荒んだ衝動に吹き飛ばされることもなくなるだろう。
日番谷が、日番谷の魂が、その手にある限り。
(…ボクの…冬獅郎…)
開いた門の先は、日番谷にとって天国なのか、地獄なのかはわからない。
だが自分にとっては、紛れもなくそれは天国だった。
自分にその門が開くとは思ってもみなかった、正真正銘の天国だ。
(あか〜ん。こんなん慣れてへんもん、眩しすぎて目が眩むわ〜)
出会ってしまったからには、もうどうにもならない運命なのだ。動き出してしまった歯車を止めることは、誰にもできない。市丸にも、できなかった。
目に見えない流れ。
ゆくべくしてゆく道。
怒涛のような激流に流されて辿り着く先は、きっと同じ場所だと信じている。
運命とは、途方もなく、とてつもなく大きな力だから。
この子のこの手は小さいけれども、とても、とても強い力を持っているから。
(このまま、ずっと握っとってや?)
市丸は自分の着物をぎゅっと掴んでいるその愛しくてたまらない想い人の温もりを抱き締めながら、満たされた思いでうっとりと目を閉じた。