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宴〜EN〜−1

 突然の大雨で、日番谷が慌てて民家の軒下に飛び込む と、同じように雨の中を走ってきた男がいた。
 スラリと高い長身に、短い銀色の髪。長い手足。柔ら かな身のこなし。そして、隊首羽織。
 日番谷の隣に飛び込んできた市丸は、髪からポタポタ と雫を落としながら、あれ、十番隊長さんですやん、奇 遇ですねえ、と言った。
「…なんでテメエ、こんなところ歩いてたんだよ。行動 が怪しいぞ」
「ええ?仕事ですよ。ひどいなあ。十番隊長さんこそ、 こないなところで何してはったん?」
「俺こそ仕事だ」
「俺こそって何?ボクかて仕事や言うてますやん」
 平然と言い返してくるが、それが本当なのかどうか、 日番谷にはわからない。
 最初から日番谷は、すごい偶然だと言い張る市丸に、 心の中で、んなバカな、と思い続けていた。
 ひとりになりたくて、瀞霊廷のはしっこの家の屋根の 上やら、図書館の奥深くやら、まずめったに誰も来ない ようなところにいても、いや、そういう時の方が高い確 率で、市丸は近くを通りかかる。
 何してはるの?と柔らかな声で聞きながら隣に座る市 丸を、はじめは警戒していたが、市丸は思っていたより もずっと話すのも聞くのも上手で、日番谷が冷たい態度 をとってもあからさまに嫌そうな顔をしても全く気にす る様子もなく、気が付いたらいつの間にか、他愛ないこ とを色々と話していた。
 市丸のものの見方や考え方は日番谷の想像を絶するこ とも多く、何を考えているのか読めない感じが不快に思 えることもあったが、彼の隣は最初に思っていたほど、 居心地が悪いばかりでもなかった。
 ただ市丸は最初から変なことを言っては日番谷をから かって遊ぶ悪い癖があったので、時々本気で腹が立ち、 怒って市丸を置いて去ったこともあったが、そうされて も市丸は懲りもせず、また日番谷のもとへやって来た。
 普段は特にこれといってつながりもない三番隊隊長の 市丸と、そんなふうにして少しずつ、同じ時間を過ごす ようになった。
 日番谷がひとりの時にいつも『偶然』出会って、そん な時間を重ねる間、市丸は口癖のように毎回一度は、「十 番隊長さんは、ホンマに可愛えねえ」と蕩けるように言 った。
 最初はバカにしているのかと憤慨し、そのうちこいつ は変態なんじゃないかと怪しみ、聞き慣れてくると挨拶 くらいにしか思わなくなり、そしていつの間にか、それ を聞くと落ち着かなくなるようになってきた。
 冗談のように言われるそんな言葉の中に、市丸の真剣 な気持ちを感じ始めたからだろうか。
 市丸がどうして用もないのに、しょっちゅうこうやっ て日番谷に会いに来るのか、その理由がわかってきたよ うな気がした。
 日番谷が気付いたことに市丸も気付くと、言うことも あからさまになってきた。 『十番隊長さんは、なんやええ匂いがしはりますね?』 『ぎゅって抱っこしてみたらあかん?』『ほんま、食べて まいたくなるほっぺやね〜』『カレシに立候補してもえ え?』
 そこまでハッキリ言ってもいつも笑って冗談のように 言うので、そんな言葉に真剣な返事をしたこともないし、 関係が進むということもなかった。
 時々とんでもなく熱いまなざしが絡み付いてくること はあったが、日番谷はいつもそんなものには気付かない ように、知らん顔を決め込んでいた。
 友達以上恋人未満という言葉があるが、丁度そんな感 じだろうか。
「全く、ひどい雨やねえ」
 大きな雨の音に半分かき消されながら、市丸が独り言 のように言った。
 激しい雨とか強い風など、いや、小雨やそよ風であっ てさえも、よくある自然現象の中にいる市丸は、何故か いつもそれだけで、雨や風と一緒にどこかへ消えてしま いそうに見えた。
 これだけ存在感のある、印象の強い男なのに、時々ぽ っかりと存在が消えたようになるのだ。
 それとも雨や風の中に、溶け込んでしまうのかもしれ ない。
「あっ、日番谷はん、今光ったで!雷や、雷!」
「はしゃぐな、子供じゃねえんだから」
「だって綺麗やし、ワクワクするやん」
「しねえよ、別に。それより早く過ぎてくれねえと、帰 れねえぜ」
 タメ息とともに日番谷が言うと、市丸はきゅるんと笑 って、絞れるほどに濡れた着物の下から、何故か全く濡 れていない手拭を取り出した。
「はい、これ使うて」
「お前が使えよ。お前の方がずぶ濡れだ」
「こんだけ濡れたら、同じやもん。それより十番隊長さ んが風邪ひいたらあかんし」
 言ってその手拭で、日番谷の頬を拭いた。  まるで愛撫するように、優しく、ゆっくりとした動き だった。
 日番谷は怒ったような顔のまま、珍しくも黙ってじっ としていた。
 市丸を見上げている為上げられた顎の先を、そっと手 拭がなぞってゆく。
 市丸の長い指の先が、通り過ぎざま、ふわりとその唇 に触れた。
 そこで初めて日番谷は市丸の手を払い、手拭を奪い取 って自分で拭いた。
 市丸は黙って笑みを浮かべたまま、じっと日番谷を見 ている。
「なんだよ。ジロジロ見んな」
「せっかくセットした髪が、濡れて垂れてもうてるね?」
 髪は立てないと幼く見えてしまうとわかっていたため、 日番谷はチッと小さく舌打ちした。
「すぐ乾く」
「濡れた髪いうんも、なかなか素敵ですよ?」
「失せろ、変態」
「ひゃっ、ひどいわぁ。褒めてますのに」
 睨み上げると、市丸の髪はただ濡れそぼっているだけ で、それほど変わって見えるということもない。
 ただ、雨の匂い、濡れた着物の匂いが、今ここに確か にいる市丸の姿を、くっきりと浮かび上がらせているよ うに感じた。
「…止まねえな…」
 激しい雨の細かな飛沫が二人を壁際まで追いやって、 いつも以上に市丸を近くに感じた。
 静かに、ひっそりと、空気の濃度が高まってゆく。
 黙っているとそれを嫌でも意識して、言葉一つ、動き ひとつ間違えたら今にも抱き締められそうな、今まで保 ってきた微妙なバランスが一瞬で崩れてしまいそうな緊 張感に、息が苦しくなってきた。
「…なんや、不思議ですね」
 不意に市丸が、空を見上げたまま、静かに言った。
「キミとこうしとるとな、ボクの中でフワフワしとった もんが、ピタッと落ち着く感じがするんですわ。それが なんとも心地好うて。…魔法にかかっとるみたいや」
 ぽつんと言ったその言葉は、いらないことは山のよう に言うのに、肝心なことはなかなか言わない市丸の、珍 しくも本当の言葉だと、突然日番谷は理解した。
 ぽたり、ぽたりと、市丸の着物から落ちた雫が、地面 を濡らしては吸い込まれてゆく。
 しばらくそれをじっと見てから、そっと市丸を見上げ ると、市丸もゆっくりと日番谷の方へ視線を落とし、目 が合った。  市丸の笑顔は、いつもと何も変わらない。
 だが魅入られたように、視線が外せなくなった。
「…少し寒なってきましたね?」
「…ヤバいぞ、それ。早く着替えて、身体温めた方がい いんじゃねえの、お前?風邪ひくぞ」
 市丸の言葉でようやく呪縛が解けたように日番谷が言 うと、市丸は嬉しそうに笑って、
「心配してくれはるの?嬉しいわぁ。十番隊長さんは、 優しいんやね」
「普通だ、バカ。てか、お前もっとしっかりしろよ。大 人なんだから」
 言ったところで、少し雨が小降りになった。
「あ、雲の切れ目に入ったで。次の雨来る前に、走ろか」
 市丸の手がさっと伸びて、どさくさに紛れて日番谷の 手を握った。
「あっ、テメエ、」
「急ぎましょ」
 聞こえないようなフリをして駆け出しながら、三番隊 舎の方がこの近くや、と言って、市丸はにっこりと笑っ た。