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大福−5

 殺気…とも違う。それは、何か強力な、魔物の匂いのようなものだった。
(虚か?!)
 瞬時に緊張して、気配を辿る。
 暗闇の中に、黒い影があった。
 それはギラリと光る刃そのもののように、1mmでも動いたら切り裂かれそうな、鋭さをもっていた。
 それでいて引きずり込まれそうに、闇に溶け込んでいる。
 風に揺れる木の葉の音が急に不穏な色を帯び、闇の中に潜むその存在を浮かび上がらせていた。
 息をするのも困難な緊張感の中、日番谷は目だけでそれを捉えた。
(!…市丸…?!)
 驚きに、それは声にもならなかった。
 いるはずのない男が、まるで魔物か幽霊のようにぼんやりと、そこに立っている。
 刀はしまっているのに、抜き身で持っているような、ビリビリくるほどの殺戮の匂い。
 どこにも怪我も、血の跡もないのに漂ってくる血の匂い。死の匂い。
 市丸が全身にまとう、狂気のようなその匂いに、日番谷は息を飲んだ。
「…キミ、今、どこから帰ってきはったん?」
 それは確かに、市丸の声だった。
「あっちは五番隊舎の方やねえ?」
 だがそれは聞いたこともない、低く冷たい声だった。
 しかしそれでようやく空気が揺るぎ、息が抜けた。
「い…ちまる?」
「…ほんま残酷な子やねえ、キミは」
 風も凪いでいるというのに、月が揺れ、葉が揺れ、影が揺れたように感じた。
「今日はボクの誕生日やで?応えてもらえんのは仕方ないにしても、他の男の部屋から出てくるゆうんは、あんまりなんやないの?」
 言って市丸は塀にもたれていた背を浮かせ、ゆらりと一歩近付いた。
「それに、ボクがあのおっさん好きやないの知ってて、なんでよりにもよって、そんなとこ行くん?何してはったの?」
「市丸…お前、現世に行ってたんじゃ…?」
 近付かれた分だけ下がりそうになって、日番谷はどうにか足をとどめた。
 こんなわけのわからない状態とはいえ、市丸に圧倒されて下がることだけは、したくなかった。
「よう知ってはるね。ボクがいないの知って、ほなら都合ええ思て行ったゆうこと?」
「関係ねえよ」
 近付いてくるにつれ、血の匂いが濃くなった。
 きっと市丸が倒してきた虚の死の匂いなのだろう。
 顔を背けたくなるのをぐっと堪えて、日番谷は毅然と顔を上げ続けた。
「一週間の任務やったけど、あんなもんに、そないかかるかいな。全部見つけ出すのに、ちょう時間とられてもうたけど。…どないしたの、十番隊長さん…顔色悪いで?」
 市丸は日番谷まであと数歩というところで足を止め、じっくりと日番谷を見た。
「バカ言えよ、顔色悪いのは、テメエの方じゃねえか。その…血の匂い、どうにかしろよ!」
「あァ、…血ぃの匂いする?ついさっき、ぎょうさん斬ってきたところやからねえ」
 市丸が匂いをかぐように袖を口元に当ててから、にいっと唇の端を吊り上げた。
 市丸に、溶けるように死の匂いがまとわりついている。
 喜んでまとったものにも見える。
 喜んで殺生をし、今なおその余韻に浸っているように。
「…カタナ、しまえよ…」
 だが、そんなものはどうでもいいような、わけのわからない気持ちが胸に生まれてきつつあった。
「…抜いてへんよ?」
 もうよほど話す機会もなくなるのだと思っていた市丸が、また自分の前に現れて、すぐ、そばにいる。
 黒くて鋭い、殺気とともに。
 不意に、初めて見た時の市丸を思い出した。
 ここまであからさまではなかったが、似たようなものを感じ取ったのだ。鞘の中にあってさえ隠し切れない、得体の知れない、何かを。
 そして同じようなものを目の前にしても、初めて見た時のような嫌な気持ちにはなっていない自分に、日番谷は少なからず戸惑っていた。
 毎日のように十番隊に遊びに来ていた市丸も、今の市丸も、まるで別人のようだが、そうじゃない。
 今市丸をそうさせているのは、虚か、自分か。それとも全く別の、何かなのか。
「抜いてンだろ、しまえよ!」
「…」
 怒号のようなその声に、市丸はじっと日番谷を見てから、視線をはずし、天をふり仰いだ。
 しばらくの間黙ってそうしてから、ようやくぽつんと、できへんよ、と答えた。
「殺気がキツかったら、堪忍なぁ。殺し足りひんもん、しまえんわ。…せやけど」
 一度切って、また日番谷を見た。
「隊長さんクラスを斬ったら、満足するかもしれへんなあ。どやろ、十番隊長さん?」
「バカ言え。そんな遊びに付き合えるか」
 黙った市丸から漂う、粘りつくような血の匂いが濃くなってゆく。
「…なんでやの?」
「何が」
「なんで藍染のおっさんなん?」
「お前が思ってるようなことは、何もねえよ」
「そうなん?…髪の毛、ちょう乱れてはるよ?」
「え?」
 乱れていると言われても、思い当たるのは、不本意にも藍染に頭を撫でられたことくらいだ。
 一瞬思い巡らせているうちに市丸の長い手がすうっと伸び、髪の先に触れた。
「!何しやがる!」
 思わず身をよじり、その指先から逃れた。
 市丸の手はそのまま空中で一度止まってから、ふわりと戻った。
「他の誰かさんに触られるのはよくても、ボクに触れられるのは嫌いうこと?」
「テメエでも誰でも、嫌なんだよ!」
「…それは、どやろね?」
 感情のこもらない声で言って、市丸がすうっと、身体を引いた。
「…キミ、懐に何入れてはるん?」
 ハッとして胸に手を当てると、そこには藍染に借りた本が入っていた。
「これは…藍染が…」
「モテモテやね、キミは」
 ビリビリくるほどの殺気をまとったまま、闇に溶け込むように姿が消えてゆく。
「おい…市丸!」
 思わず叫んで、日番谷はその影に手を伸ばした。
「どこ行くんだよ、まさか藍染を斬りに行くつもりじゃねえだろうな?!」
「せえへんよ、そないなこと」
 市丸の影は日番谷の指をすり抜け、声だけを残して見えなくなった。
「失恋男が退場するだけや」
 風が囁くような最後のその言葉を聞いて、気が付いたら日番谷は市丸を追って、駆け出していた。
「待てよ、市丸!」
 姿は見えないままその血の匂いと影だけを追って、屋根から屋根へ飛んでゆく。
 いつも追われてばかりだったから、市丸を追うのは初めてだった。
 本体が見えずに影を追わされているところが、普段の市丸の様子によく似ていると思った。
 影は全く目的を感じられない動きで、そのうち本当に自分が追っているのが市丸本人なのか、わからなくなってくる。
(…なんで俺、こんなことしてるんだろう)
 完全に、衝動だった。
 どうでもいいと思うのに、いいはずなのに、追わずにはいられない。
 追って、捕まえて、どうするつもりなのか自分でもわからないのに。
 突き放したのは、自分だ。
 いらないと言ったのも、自分だ。
 なら何故今更追っているのか、さっぱりわからない。
 そしてわからないと思う度に、胸がぎゅうっと苦しくなるのだ。
 まるで、本当はわかっているのに、わからないと思おうとしている自分を、責めるように。
 こんなに全力で追っているのに、姿すら捉えられないままさんざん振り回され、やがて気配も匂いも霊圧も、どんどん薄くなって辿りきれなくなってきた。
(ちくしょ…ドコ行きやがった?!)
 完全に見失ったと悟ると、日番谷は一度足を止め、息を整えた。
 もうやめろと理性が言っていた。
 追う意味もない。
 市丸だって、日番谷が追ってきているのを知っていて、捕まえさせなかったのだ。それは、来るなということだ。
(…いや、あいつの場合、捕まえてみねえと、わからねえ)
 クソ、と喉の奥で唸って、日番谷はもう一度、駆け出した。

 一度藍染の部屋の様子を見に行き、何もないのを確認してから、日番谷は三番隊舎へ向かった。
 今いなくても、いつかは帰ってくるだろう。
 そこは、市丸の部屋なのだから。
 夜中の隊舎は、シンと静まり返っていた。
 十番隊と同じような造りなのに、どこか不気味な印象さえある。
 部屋の中に市丸の気配がないのを確認すると、日番谷はその前に座り込み、待った。
 夜一人で暗闇にうずくまり、何かに耐えたり何かを待ったりしていたことは、小さい頃、時々あった。
 そういう時はたいてい、日番谷が出てゆく前に、誰かが探しに来てくれた。
『シロちゃん、こんなところで何しているの?』
 いつもはその顔を見、その声を聞いた瞬間そのものが、全ての答えだった。
 生きてゆくことの答え。自分が欲するものの答え。するべきことの答え。強くならなくてはならない、答え。
 どのくらい待ったのか、微かな足音を聞き取って、閉じていた目を開いた。
 昔よく聞いた小さな少女のものではなく、極力音は消しているけれどももっと大幅で重量があり、不穏な空気をまとった足音。
 真っ暗な廊下の向こうから、抑えた霊圧が近付いてくる。
 ビリビリ感じていた殺戮の匂いも、ぐっと抑えられていた。
「あれ、十番隊長さんやないの。こないなところで、何してはるの?」
 のんびりした声が、ピリリとした毒を含んで、ぬけぬけと言った。
「子供は寝る時間やで?」
「誰が子供だ」
 思わずムッとして答えると、
「子供やないなら、わかるはずですやろ?こないな時間にこないなとこ来はったら、あかんよ?」
 言って日番谷の前を通り過ぎようとする市丸に、思わず手を伸ばした。
「…おい、ちょっと待てよ」
 伸ばした手の先でするりと羽織が揺れて、市丸は悠然と通り過ぎてゆく。
「…おい!」
 もう一歩踏み込んでもう一度手を伸ばすが、掴んだはずの指先は空を掴み、揺れるだけに見える羽織は確かな意思を持って、その指をかわしていることに気が付いた。
「…市丸!」
 片手ではダメだ。こんな中途半端な踏み込みでも、ダメだ。
「市丸!」
 彼が自室の戸に手をかけ、次の瞬間にもその中へ消えてしまうだろう直前に、日番谷は市丸を捕まえた。
 精一杯腕を伸ばしてその腰に巻き付け、体当たりをするように身体全部で市丸を、捕まえた。
 大きな市丸を捕まえるにはいささか心もとない小さな身体しか持っていなかったが、柳の枝のように揺れるばかりだった市丸の動きはそれで止まり、ピタリと足も止まった。
「…十番隊長さん?」
「…待てつってンのに、なんで逃げるンだよ?」
「あかんよ、十番隊長さん。この手、放し?」
「放さねえ」
「キミのこと好きやゆうてる男にこないなことしたら、襲ってもええゆう意味にとられても、文句言えへんよ?」
「…だって放したら、逃げるじゃねえか」
「…そらまあ、十番隊長さんにこないに可愛く抱き付かれたら、もったいなくて逃げられへんけども。逃げへんだけやのうて、イケナイことまでしてまうよ?」
「…」
「あれ、怒らんの?」
「うるさい」
「本気にしてまうよ?」
「黙れ」
「理性の限界なんやけど」
「我慢しろ」
「無茶言わんといて」
 大きくて冷たい手が、すっと日番谷の手に触れた。
 ぎゅっと手首を握られたと思った次の瞬間、ふわっと身体が浮き上がる。
「うわっ…」
 気が付いたら軽々と市丸に抱き上げられていた。
「テメ…何しやがる、下ろせよ!」