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初めてのバレンタイン−1

 ごくごく平和な冬の朝、日番谷がいつものように朝早く隊舎へ向かうと、執務室へ続く扉の前に大きく、「隊長へのチョコレート禁止」と書いた張り紙が張ってあった。
「…なんだ、これ?」
 どう見ても松本の字だが、意味がわからない。
 夕べ帰る時にはなかったような気がするが、いつ張ったのかもわからない。
 それに、「動物に餌を与えないで下さい」みたいな書き方がちょっと失礼な気がする。
 ムッとしながら部屋に入ると、机の上に赤やピンクの可愛いラッピングをした包みがいくつか置いてあった。
「…なんだ、これ?」
 早朝にして本日二度目のセリフを口にしながら机に近付き、手にとって見ていると、
「あれ、隊長〜、おはようございます。早いですね〜」
「それは俺のセリフだ」
 松本の声に驚いて、日番谷は振り返った。
 いつも松本はもっとギリギリにならないと出てこないのに、こんなにさわやかにこんなに朝早く出てくるとは。
 松本は日番谷の机の上の包みを見ると、にこやかだった顔を曇らせた。
「禁止って書いておいたのに。隊長、食べたかったら食べてもいいですけど、こっちはお返しとか気にしなくていいですからね?」
「お返し?」
 日番谷が聞くと、松本は期待に満ちた嬉しそうな顔で、いやそれを隠そうと少しばかりの努力をしたけれど隠しきれていないような顔で、隊長〜、知らないんですか、バレンタインデー、と言って微笑んだ。
「バレンタインデー?」
「現世の行事で、今ちょっと瀞霊廷内でも若い女の子を中心に流行り始めているんですよ」
 日番谷の机の上の包みを片付けながら、松本はバレンタインデーの説明を始めた。
 もともとは恋人に愛情を伝えるためにプレゼントをし合う日で、女性から男性に愛の告白をする習慣のなかった日本では、女性から男性にチョコレートを贈ることで、好きだという気持ちを伝えてもいいという日になったこと。更にそれは今では、基本は変わらないながらも、いつもお世話になっている人とか、付き合いのある男性に挨拶代わりに渡されたり、女性から男性へという枠もなくなり、女性同士で渡し合ったり自分に買ったりすることもあるということ。
「そしてここが肝心なところなんですけど、一ヶ月後の三月十四日はホワイトデーといって、バレンタインデーにチョコレートをもらった人はお返しに何かをプレゼントしないといけないんです」
「何を?」
「何でもいいんですけど、基本はもらったチョコの値段の三倍くらいの値段のものを返します。チョコをくれた相手を自分も本気で好きだったら、相場は十倍くらいですかね」
「えっ、そうなのか?」
「はい。あげる方も、相手への気持ちで豪華なチョコだったりいかにも義理ってチョコだったりしますから、その気持ちに応える意味で。もちろん、チョコを渡される段階で受け取ることを断っても問題ありません」
「はぁ〜、チョコの受け渡しで、自分と相手と、お互いに対する気持ちの大きさを測り合うのか。女の好きそうな行事だな」
 松本の説明のポイントがややそちらに傾いていたため、日番谷はごくクールに、受けたままの印象をそのまま口にした。
「それで『隊長へのチョコレート禁止』なのか」
「ああ、気が付かれました?だって隊長が一般隊員からいちいちチョコ受け取っていたら、すごいことになっちゃいますよ。お返しも大変ですし、賄賂っぽいイメージが混ざっちゃうかもしれないし」
 確かにそれもそうだ。
 日番谷はその説明で、あの失礼な張り紙にもそれなりに納得した。
「…と、いうわけで隊長、これ私からのチョコです」
「あん?」
 どこから出したのか、松本は豪華で上品な包装紙にリボンまでかけた、中身がチョコだとしたら大きめの包みを日番谷に差し出した。
「『隊長へのチョコレート禁止』なんじゃないのか?」
「それは一般隊員の話ですよ〜。私はいつも身近で隊長の補佐をさせていただいている副官ですから、隊長にチョコをあげる権利があるんです。大好きな隊長のために、ちょっとふんぱつしちゃいましたvv」
 今更そんな仲でもないが、それでもそう言われると少しばかり照れて、日番谷は少し戸惑ってから、受け取った。
「そ、そうか、あ、ありがとう」
「どういたしまして」
 その様子を見て、松本は口には出さなかったが、「うふっ、隊長ったら、可愛い〜んvv」という心の声が聞こえそうな顔をして微笑んだ。
 いつものことなので日番谷はそのへんは気にしないことにしたが、それはそれとしてクールに、
「で、ホワイトデーとやらには何が欲しいんだ?」
「あらっ、隊長、もうお返しのこと考えて下さってるんですね?嬉しい〜vv何でもいいんですよ。私のこの気持ちに隊長が応えたいと思われる気持ちの分を返して下さったら、それで」
「これの三倍くらいのもん返さねえといけねえんだろ?チョコの値段なんてわかんねえし、女が喜ぶものもわかんねえよ」
「そんなのは目安だから、本当に隊長の気持ちでいいんですよ〜うvv隊長が私のために考えて用意してくださったものなら、私、何でも嬉しいですから♪」
 一番難しいことを求められて日番谷は困ったが、とりあえずわかったと頷いた。
「あ、隊長、今日はあまり外を出歩かない方がいいですよ。私一応隊員に隊長にはチョコをあげないようにって言っておきましたけど、それでもどうしても隊長にチョコを渡そうとする子がいると思うし、受け取らないと一番いいんですけど、隊長断るの下手そうだし」
「悪かったな」
 少しムッとはするが、こういうことは松本に任せた方がいい。机の上にあったチョコもどこへ片付けたのかわからないが、松本が日番谷の代わりに適当にお返しをしておくと言ってくれたので、正直ホッとした。
(さて、松本へのお返しだが…、何をやったらいいのか、今度雛森にでも相談してみるか…)
 そんな呑気なことを考えていた日番谷は、バレンタインデーというものを、まだよくわかっていなかった。
 仕事を始めてしばらくした頃、当の雛森が、にこにこしながら十番隊へやってきた。
「日番谷くん、ハイ、これ、私からvv」
「えっ、これって、…」
「うふっ、チョコレートvv」
 瀞霊廷内で若い女の子を中心に流行り始めているのなら、その中に雛森も入っていて当然だ。
 松本よりも可愛らしいラッピングを施された、松本がくれたのと同じくらい豪華めな包みを渡されて、日番谷は一瞬呆然としてから、ふわっと頬を染めた。
「あ、ありがと…」
 これでお返しを何にすればいいのか雛森に相談するという作戦は実行できそうもなくなった。
 だが、こういうのは照れくさいけれども、やっぱりちょっと嬉しくないこともないと、日番谷は改めて思った。
「日番谷くんは、バレンタインデー知ってるんだね」
「ああ…今松本に教えてもらった」
「松本さんに?…それは、楽しみだわ〜♪」
「…」
 それは、お返しのことを言っているのだろうか。
 どうもバレンタインデーというのは、そっちの方がメインなのだなと、日番谷はまたも多少偏った認識をした。
 この段階で、日番谷はバレンタインデーというものの持つ微妙な意味合いを正確にはわかっていなかったが、更にその認識を誤らせる発言が、意外にも雛森の口から飛び出した。
「…で、日番谷くんはもう市丸隊長にチョコ渡したの?」
「ええっ、な、なんで俺が市丸に…っ?!」
 思いがけず出てきた名前に、日番谷はひっくり返るほど動揺したが、
「だって日番谷君、市丸隊長と付き合ってるんでしょう?」
「付き合ってねえよ!」
 思わず言うが、雛森は無邪気に笑って、いつまでもそんなこと言ってると、浮気されちゃうわよ〜、とさらりと言った。
 とっさに何か言い返したかったが、その言葉に少なからずギクリとして、日番谷はただ口をパクパクさせただけだった。
 市丸の猛烈なアプローチに流されるように、日番谷はこのところ市丸といい感じになってきていた。
 彼の来訪を密かに楽しみにしていたし、彼の隣が心地よいと思い始めていたし、Hなこともしてしまった。何度となく。
 だが市丸の愛情表現は露骨すぎて、恥ずかしすぎて、いまだに日番谷は付き合ってはいないと言い張っているし、その態度は邪険なままだ。
 傍から見ていると、まだ市丸の片思いなのか、ふたりはもう出来上がってしまっているのか、判断が難しいところだった。
 市丸は日番谷がどれだけ冷たくしてもいっこうにメゲる気配もなく、それどころか日番谷がブレーキをかけてやらねばどこまでいくのか心配になるほどの暴走ぶりだったので、それくらいで丁度いいとさえ思っていた。
「市丸隊長も、今日はきっとチョコレート攻撃に遭ってると思うわ〜。けっこう人気あるのよ?市丸隊長」
 だが、そんなふうに言われると、微妙に心配になってくる。
「そうね〜、三番隊は副官が吉良だから、私ほどには防げないかもしれないわね〜」
 松本までが、そんなことを言い始めた。
「でも市丸隊長は、きっと日番谷くんのために、必死でチョコレート断ってると思うわ」
「いやそれは…、ありえないだろう?」
 市丸はそういう意味では、来るものを拒むタイプには見えない。きっといつものあの胡散臭い愛想を振りまいて、おおきに、おおきに、などと言いながら、へらへら笑って要領よくもらうものはもらって歩くに違いない。
 …想像したら、少し腹が立ってきた。
 が。
「いえ、ギンはきっと日番谷隊長からのチョコを楽しみにして、他のチョコは受け取っていないと思うわ」
 その根拠を詳しく聞きたいくらい自信満々に、松本までもが言い切った。
「そうかあ〜?」
 かなり疑いの眼差しで日番谷が言うが、
「そりゃもう、あいつはそういう演出にかけては抜け目が…じゃなくて、日番谷隊長に対する盲愛ぶりったらすごいですから、他のチョコなんて目に入らないですよ」
「そ…そうか…な…?」
 だったらいいな、などと思うともなく思ってしまったりして、そんな日番谷の内心を女の勘で素早く読み取った二人は更に、
「でもそれでシロちゃんがチョコあげなかったら、がっかりも大きくて可哀相よ」
「ウザく泣きついてきたり、ヤケクソで他の子からのチョコもらっちゃったりするかもね」
 別にこの二人は市丸に何か頼まれたわけでも市丸の味方なわけでも、ましてや市丸を幸せにしてやろうなどと自発的に思っているわけでもなかったが、市丸と日番谷のカップルは細部にわたって出歯亀したくなるほどおいしいと思っていた。
 特に素直でない日番谷の態度や言葉や姿がそれはもう可愛くて、普段なかなか見られない、日番谷のそういう一面を見るためなら、多少市丸もついでに喜ばせてやってもいい、と思っていた。
 ついでに恋愛事には疎い日番谷に、自分達に都合のいい常識を教えたりすることにもイケナイ喜びがあった。
 そんなこととは夢にも思っていない日番谷は、ああ見えて案外本当に日番谷一筋の市丸に多少ほだされてもいたし、市丸が他の奴を見たりしたら面白くないと思わないでもなくて、二人の言葉に心が揺れてしまった。
「それに、隊長、本命の子からのチョコのお返しは、十倍返しですよ!あいつがお返しに何くれるか、楽しみじゃないですか?」
「そうよ!市丸隊長ってちょっと何考えてるかわからないところあるけど、これで気持ちがわかるかも!」
「市丸からのお返しか…」
 それは確かに、興味がなくもない。
 あの男がどんなものを返してくるのか。
「…お返しって、普通、物で返すものなんだよな?」
 ちょっとばかり怖い考えになって確認すると、二人同時に、もちろん、と頷いた。
 日番谷が何を心配してそんな確認をしたのかすぐにわかって、心の中でキャーキャー喜んでいたことは、もちろん日番谷にはわからなかった。
「…ふうん…で、…その、チョコってのは、…どこに売ってんだ…?」
 とうとうその気になった日番谷に心の中でガッツポーズをし、その照れながら聞く様子もなんとも可愛いとクラリとしながら、「連れてってあげますよ!」と言って、松本が日番谷の背中に手を置き、雛森もその手をとった。