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開けたらあかん−1

 ふわりと見上げると、美しい月が出ていた。
(ああ、ええお月さん出とるなぁ。…ぴったりの夜や)
 満足気に微笑んで、その光に誘われるように、ゆったりと市丸は歩いてゆく。
 月だとか星だとか雪だとか、水面だとか。
 特に風流を好むとか、自然を愛しているというわけでもない。
 それでも、そういったものはするりと心に入ってきて、気持ちを押し上げたり、静めたりする。
 こんな高揚した気分の時に、ぴったりの月が昇っているのを見ると、今にも身体が浮き上がって、空を飛んでしまいそうに思えた。
 …空を飛んで、十番隊の、可愛い可愛いあの子のところへ。
 まさに今そんな気持ちで、考えただけで、本当に飛んでいきたくなってしまう。
 あの子の方は子供なのによっぽど冷静でクールで、市丸が飛んで会いに行っても、ちっとも喜んでくれもしないだろうけれども。
 それでも市丸は、毎日毎日、日番谷に会いに行った。
 顔が見たくて、声が聞きたくて、…彼に触れたくて。
 市丸が十番隊に着くと、まだ執務室の窓には灯りが灯っていた。
 中にはどうやら、日番谷がひとりでいるらしい。
 市丸は小石をひとつ拾い上げると、その窓に軽く投げて当てた。
 コツ、と小さな音がしてしばらくしてから、窓がそっと開いた。
 可愛らしい顔が、うんざりしたように眉をひそめて見下ろしてくるが、
「会いに来たで?」
 市丸が言うと、日番谷は無言のまま窓を閉めて、引っ込んでしまう。
 それから部屋の灯りが消えて、またしばらくすると、日番谷が外から回って市丸のところにやって来た。
「今日も遅うまで頑張っとったんやね。無理したらあかんよ?」
「片付けねえと気が済まねえんだよ」
 二人で並んで歩き出し、向かう先に当てはないが、なんとなくいつものルートはできていた。
 十番隊の裏手に回って、古い石の階段を上り、木々の間を抜けて、少し開けたところに鎮座する岩のところまで。
 そこに並んで座って少しばかり話をし、市丸が持参した軽いおやつを二人で食べて、その日の日番谷のご機嫌が良ければ、抱き寄せても殴られない。
 毎晩毎晩繰り返されるそんな可愛らしい逢瀬の先を、市丸は毎晩期待して誘いをかけるが、それが実ったことは、ほんの2〜3度しかない。
 そのうちの1回は、その先といっても、キスまでだった。
 市丸は日番谷を自分の恋人だと思っていたが、日番谷が自分をどう思っているのかは、知らない。
 確認したい誘惑に駆られることもしょっちゅうだったが、どう答えられても、それをきっかけに自分の心が暴走し、抑えられなくなってしまうような気がした。
 石段を上りきったあたりではもうよほど人目にはつかなくなるので、その頃を見計らって、市丸はそっと日番谷の可愛らしい手に自分の手を伸ばした。
「触ンな」
 指先が触れたとたん、軽く撥ねられた。
「ええやんか、きれいなお月さんも出とることやし」
「意味わからねえ」
 言って強引に手を握ってやると、文句は言うが、今度は払われなかった。
 こういうところが日番谷の可愛いところであり、難しいところで、照れているだけの時もあれば、本当に嫌がっていることもある。
 だがおおむね、彼が本気で嫌がるのは、人目を気にした時か、身の危険を感じるほどの行為に対してだと思われた。
 つまり二人だけの今、手を握るだけなら、許容範囲ということだ。
(言うても前は手も握らせてくれへんかったんやから、握らせてくれるいうことは、好きいうことやない?)
 小さな可愛らしい手を握っていると、どうしようもない衝動に胸が焦げる思いがすることがある。
 このままどこかへさらっていって、自分だけのものにしたくなる。
 平静を装っているが、市丸が心の中でそんな思いに駆られていることに、日番谷は気付いているだろうか。
「きれいなお月さん、もっとよう見えるとこ行こ?」
 木々の間のふたりだけの道を、いつもの岩へと続く方向でなく、分かれ道の方へ手を引っぱると、日番谷は市丸を見上げて、少し戸惑った顔をした。
「おいで?早う」
 きゅ、と少し強く引っぱると、小さな身体はわずかに踏ん張ってから、軽く引き寄せられた。
「…ドコ行くんだよ?」
「ええとこv」
 どさくさ紛れに先ほどより少し強く手を握りながら、市丸は楽しそうに答えた。
 このまま本当に、さらっていけたらいいのに。
 初めての経験ならば、相手を好きでも行為をためらう気持ちは、わかる。
 だが、もう二度三度と身体を重ねているのに、時も場所もムードもこれ以上ないほど考えてやっても、それでも頑なに日番谷が市丸との行為を拒むのは、
(…まだボクの気持ち、信じられへんのやろか…)
 それとも二人が男同士だからなのか、立場の問題なのか、年齢の問題なのか、身体の問題なのだろうか。
 そういったことは市丸だって全く考えていないわけでもなかったが、そういうもの全てが何の障害にもならないと思えるくらい、この上なく真剣な気持ちでいることは、どうやって伝えたらいいのかわからない。
 真面目で、誠実で、ストイックで、そして何より、まだ日番谷は若い。若いというよりも、幼いという言葉の方が近いかもしれないくらいに。
 その彼を大事に大事にしながら奪い尽くすには?
 自分の中で、いつでもそれは右に左に、ゆらゆらと揺れている。
 大事にしたい愛情と、奪いつくしたい衝動と。
(…愛情やて)
 自分で思って自分で笑えて、市丸は堪えきれずに忍び笑いを漏らした。
「…何笑ってんだよ、テメエ」
「ひみつv」
 丁度木立を抜けたので、市丸は答えながら日番谷の手を強く引き、腰を取って、そのまま天に差し出すように、ふわりと大きく抱え上げた。
「うわっ…何しやがる…!」
「ほら、見てみ?お月さんよう見えるやろ?お月さんと、…キミの十番隊の隊舎と、向こうの方に、ボクの三番隊舎…は、さすがに遠いね?」
 市丸の言葉に日番谷は空を見上げ、それから瀞霊廷の町並みを見下ろした。
 市丸はその隙に日番谷の身体をその胸にぎゅっと抱き締めて、それからゆっくりとその場に腰を下ろした。
「ええ場所やろ。ボクな、時々ここで、キミのこと想いながらキミの隊舎見下ろしとったんよ?」
「怖ッ!変質者かテメエ」
「ええ、ヒドイ!恋する男やったら、誰でもこれくらいするで!」
「こんなとっから見てるくらいなら、直接来りゃいいじゃねえか!」
「行ったら追い返すやん、キミ!」
「当たり前だろ、仕事中なんだから!」
「ええー!」
 他愛ない会話をしながら、ちゃっかり日番谷を腕の中に抱き込むことに成功して、市丸の心はますます高揚してきた。
「…ここに座ってな、キミの隊舎見ながら、どうやったらキミに追い返されずに会えるんやろとか、どうやったらキミを喜ばせられるんやろとか、どうやったらキミにもっと好きになってもらえるんやろとか、ずうっとずうっと考えとるんよ」
 日番谷の肩口に顔を埋めて、うっとりと囁くように言ってやると、日番谷は黙って、おとなしくなった。
「ここから見える月、キミとふたりで見られたらええなあて、ずうっと思うとったんよ?」
 緊張していた日番谷の身体が少しずつ柔らかくなって、少しずつ自分の胸に体重がかけられてくるのを感じて、市丸は更にうっとりした気分になってきた。
 愛情なんて。
 欲望と同じものだと思っていた。
 これっぽっちの体重を受け止めて、胸が震えるほどの喜びを感じるなんて、日番谷に出会うまでは、夢にも思わなかった。
 衝動のままこの場で押し倒してしまわずに、日番谷の心が開かれるまで、辛抱強く愛情を示し、優しく扱い、その気になるよう焦らず導いてゆく。
 それでも拒まれ続け、それでも懲りずに、繰り返し、繰り返し。
 でも今回は、とっておきのネタがあった。
 包み込むように抱き締めて、髪の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、
「ボクな、明日から一週間、現世で任務やねん」
「えっ…」
「任務はええんやけども、キミの可愛えお顔一週間も見られへん思うたら、」
 そこで一度言葉を切って、市丸は日番谷の身体を、ぎゅうっと強く抱き締めた。
 いつもだったらそんなことをしたら、みぞおちに肘が容赦なく入るところだが、日番谷はされるまま抵抗もせず、ひゅうっと息を詰める気配が伝わってきただけだった。
 しばらくして、その唇から吐息のような小さな声が漏れ、いっしゅうかん、と呟いた。
 それがなんとも可愛くて、いっそう抱く腕に力がこもってしまう。
「ずうっとこうして、一緒におれたらええのにね?」
 全くの本心だったから、それは日番谷にも伝わったのだろう。
 可愛らしい手が伸びて、市丸の着物の腕を、そっと掴んだ。
「…仕方ねえよ。俺達は死神で、隊長で、やらなきゃならねえ仕事は山のようにある。一日が二十四時間で、一年が三百六十五日じゃ足りねえくれえだ」
 この子はいつも、そうなのだ。
 意識していない言動はいつも市丸に好きだと言っているのに、出てくる言葉はいつもクールで冷静だ。
 いつかその可愛い口に、淋しいと言わせてやりたい。
 だがやはりそんな言葉は、市丸の理性を取り返しのつかないほどに狂わせてしまうのだろう。
「冬獅郎」
 市丸は日番谷の頭に頬をすり寄せ、甘えるように、
「明日から一週間、ボクは現世の任務で会われへんけども、…今から明日の朝まで、キミと一緒におってもええ?」
 市丸の言わんとすることは、すぐに伝わったらしい。
 日番谷はピクッと身体を震わせてから、
「…甘えンな」
「冬獅郎は、平気なん?会われへんの淋しい思うの、ボクだけなん?」
「たかが、一週間じゃねえか」
「予定ではね」
 すかさず言うと、日番谷は黙った。
 隊長格が出向く任務なのだから、それなりに危険で、難しい仕事だ。そういった任務では何か起こるかわからないし、あってはならないことだけれど、死の危険も常に伴っている。
 市丸は日番谷を抱いたまますうっと立ち上がると、キミのお部屋、行ってもええやろ、と、甘ったるく囁いた。
 だが、これなら絶対いけるだろうと思ったのに、日番谷は猛烈に暴れ出して、
「ダメだバカ、下ろせ!」
「えー、ええやん、お部屋行こ?」
「絶対ェダメ、下ろせコラ!」
「ええー!」
 だが、予想以上の抵抗に会い、市丸はやむなく小さな身体を地面に下ろした。
「ずっと一緒にいてやるのはいい!でもアレはダメだ!」
「なんでなん!わかれへん!これから一週間、お顔も見られへんねんよ!」
 結局いつもと同じ展開に、さすがの市丸も我慢の限界になりそうだったが、
「…か、帰ってきてからなら」
「え?」
 市丸を強く睨んだまま、突然日番谷は頬を染めて、震える声で言った。
「い、生きて早く帰ってきたら、ちったあいいコトもあるんじゃねえのって言ってんだよ!」
 完全に、ノせられている。
 わかっていても、市丸は思わず、しっかりと日番谷の手を握っていた。
「絶対やね!」
「一週間過ぎたら、忘れちまうけどな!」
「もっと早くに帰ってくる!」
「絶対だな!」
 今度は日番谷の手が、市丸の手をしっかりと握り返してきた。
「約束やで!」
「早く帰ってきたらな!」
 今の今まで欲望が叶えられずにキレそうだったのに、こんな約束くらいで、すっかり舞い上がっている。
 おあずけを食らった上、まんまと仕事を頑張る約束までさせられているのに、その裏に「淋しいから早く帰ってきてvv」という可愛らしい気持ちを感じただけで、もう有頂天だ。
 もちろん、一週間後か、頑張り次第でもっと早くに、おいしいご馳走の約束をもらったからということもあるが。
 市丸は日番谷の手を握ったまま、可愛い額に優しくチュッとキスをして、それやったらもう少しだけ、ここで一緒にいよう?と言った。
 日番谷は可愛らしく頷いて、市丸に手を引かれるまま、もう一度、先ほどのポジションに戻った。
 市丸の腕の中にすっぽりと入って、安心したように、先ほど以上にすっかりと市丸に身体を預けてくる日番谷が、この上なく愛しく思えた。
「そうや。今日は泣く泣くキミと別れて、一人淋しくお部屋に帰らなあかんことになったから、今のうちに、これ、渡しとくな」
「なんか、嫌味っぽいな」
「はい、これ」
「なんだ、これ…?」
 市丸は腰紐に下げていた袋から小さな箱を出すと、日番谷の小さな手に渡した。
 自分との恋に、日番谷は不安を感じているようだったから。
 自分の気持ちをなんとか日番谷に伝える方法をあれこれ考えて、市丸はふと思ったのだ。
(そうや、なんや、形にしてみたらええんやない?)
 猿でも雄が雌に求愛する時は、プレゼントを渡すと聞いたことがあるし。
 日番谷は女の子ではないが、愛情表現の方法としては、もっともポピュラーなものに思えた。
 今までせいぜい茶菓子を持っていくことくらいしかしてこなかったことが、不思議な気さえした。
「きれいやろ。からくり箱や。この前街に行った時にな、小さなお店でみつけたんよ」
「からくり箱?」
「開けるのに、ちょうっとコツのいる箱や」
 それは、日番谷の手の上にちょこんと乗るくらいのサイズの、豪華ではないが上品で美しい細工の施された、きれいな箱だった。
 一見するとただの四角い物体だが、あそこを押したりそこを引いたり、特殊な操作をするとふたが開き、箱になるのだ。
 これなら鍵がなくても、それなりの者でしか、簡単には開くことはできない。
 それが興味を引いて手に入れて、大切なものを入れておいたのだ。
 そして今回、日番谷に何か愛を示すプレゼントを、と考えて、一番に思いついたのも、これだった。
 もともと贈り物になるようなものなどほとんど持っていなかったし、新しく何かを買うよりは、自分が大切にしている物を贈った方が、日番谷は喜ぶように思われた。
「この中にな、ボクの大切なものが入ってんねや。それはあげられへんけども、この箱は、キミにあげる」
「大切なものって?」
「それは、教えられへん」
「なんで箱だけくれるんだ?」
「きれいやし。必然的に、ボクの大切なものをキミが持っていてくれるいうのも、ええなあ思うて」
「ふうん?」
 市丸の気持ちの方にはあまり興味なさげだったが、知的好奇心の旺盛な日番谷は、箱の開け方にはすぐに興味を引かれたらしい。
 あちこち見て、箱を開けようとし始めるが、市丸はその手の上に、そうっと自分の手を置いて、それを止めた。
「箱の中身は、教えられへん言うたやろ?」
 優しいが断固とした口調で市丸は、
「それ、開けたらあかんよ?」
 日番谷の大きな目が、抗議するように見上げてきた。